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民芸品ギャラリー 2
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おかめ・紙張子 ひょっとこ・紙張子 グルカ・ククリナイフ
おかめ・紙張子 ひょっとこ・紙張子 グルカ・ククリナイフ

グルカ・ククリナイフ

ネパールのグルカ族に伝わる刀剣で、グルカ族をはじめとする諸種族やインドで使用されており、クックリ刀、グルカナイフとも呼ばれる。腰帯に通すことのできる水牛の皮製の鞘に格納する。柄は樫木で刀身は鋼鉄製。鞘の口にはナイフ以外にも小刀(カルダ)と砥石(チャクマ)が格納できる小さな2つの口がついている。刀身は湾曲しており、農作業、狩猟、戦闘に使用する。写真のナイフは軍隊用刀剣ククリである。刀身の付け根にはチョーと呼ばれるw型の小さな凹みがある。なんのためのものかは不明だがククリには必須のものとされる。
グルカ族は、18世紀頃、インド北部のカトマンズ地方を支配していた有力部族である。1768年に プリトゥビ・ナラヤンがこのグルカ勢力を率いてネーワール族のマッラ朝を倒してネパール王国を建立した。1814-16年のイギリスとの3度に渡る戦争(グルカ戦争)に敗北し、イギリスの保護国となった。その後、ネパールのグルカ族出身のグルカ兵の勇猛果敢さがイギリスに認められ、傭兵としてイギリス軍に従軍し、イギリスによるインドの植民地化に貢献した。イギリスの植民地化に対するインドの大反乱(セポイの反乱)の鎮圧にも大きな戦果をあげ、グルカ兵の名が知れ渡るようになる。ネパールは1923年にイギリスから独立するが、グルカ兵はイギリスの精鋭部隊として活躍し、第二次世界大戦では、大日本帝国陸軍ともビルマ西部で死闘を繰り広げた。ククリナイフは、このような戦闘の記憶とともにグルカ族の間に先祖代々から伝わる刀剣である。
だるま落とし だるま落とし わら工芸・一輪挿し
だるま落とし だるま落とし 秩父わら工芸・一輪挿し
箱根寄木細工・秘密箱1 箱根寄木細工・秘密箱2 箱根寄木細工・秘密箱3
箱根寄木細工・54回秘密箱 箱根寄木細工・54回秘密箱 箱根寄木細工・54回秘密箱
箱根寄木細工・秘密箱4 箱根寄木細工・秘密箱5 箱根寄木細工・秘密箱6
箱根寄木細工・54回秘密箱 箱根寄木細工・54回秘密箱 箱根寄木細工・54回秘密箱

箱根寄木細工

江戸時代後期、箱根山・畑宿で初めて作られたとされる。箱根の山は、木材の種類が多い。この豊富な種類の木材を生かして、色合いの異なった木材を組み合わせることにより様々な幾何学紋様を表現した木工芸が箱根寄木細工である。一定の形をした種類の異なった木片を集めて単位となる文様を作り、これを輪切りにして板状に寄せ集めて種板を作る。この種板を大鉋で薄く紙状に削って貼り付けたり、種板そものを加工して寄木細工が作成される。小田原や箱根地方の伝統工芸である。
バングラディッシュ・刺繍 バングラディッシュ・刺繍 スリランカ・太陽の魔除け
バングラディッシュ・刺繍テーブルカバー バングラディッシュ・刺繍テーブルカバー(部分) スリランカ・太陽の魔除け
魔除けとして民家の門柱にぶら下げられる。太陽をイメージしたもの。他にクジャクやコブラなどのデザインがある。
スリランカ・ペーパウエイト・ヤクシャ サイパン島の仮面 サイパン島の仮面(横)
スリランカ・ペーパウエイト・ヤクシャ サイパン島の仮面 サイパン島の仮面
眉間のあたりから突き出た形がなんとも奇妙である。
宮島杓子 宮島杓子 宮島張り子(狐)
宮島杓子 宮島杓子 宮島張り子(狐)

宮島杓子

寛政の頃(1789〜1800)光明院の修行僧誓真が、ある夜弁財天の夢を見て、弁財天の持つ美しい琵琶の形の杓子を作ることを考案し、神木で杓子を作ることを島民に教えたのが始まりとされる。素材の木の木目に沿い琵琶型の曲線に削って作られている杓子である。僧・誓真をたたえる宮島・大徳頌徳碑前では、現在でも僧誓真が修行した光明院によって「宮島杓子(しゃくし)供養」がおこなわれている。
その後、宮島杓子は宮島の名産として定着した。日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)で、兵士たちが広島の宇品港から大陸へ渡る際、宮島の厳島神社に祈願をし、土産に宮島杓子を故郷に持ち帰ったことから、宮島杓子が宮島の名物として全国に知られるようになったという。現在、宮島の表参道商店街には、宮島杓子を記念して長さ七メートルを超す大杓子が作られている。 杓子という言葉の意味は、「飯または汁などの食物をすくいとる具。頭は小皿のようでこれに柄をつけたもの。」であり、「飯や汁などをすくう道具。特に、飯をよそう道具。」を杓文字(しゃもじ)(杓子の女房言葉)と辞書には定義されているので、宮島の杓子はその形態からするとむしろ杓文字(しゃもじ)にあたるようである。
三面仏像(釈迦) 三面仏像(地蔵) 三面仏像(観音)
三面仏像(釈迦) 三面仏像(地蔵) 三面仏像(観音)
紙塑だるま 紙塑だるま 秩父張り子
紙塑だるま(前) 紙塑だるま(横) 秩父張り子
さやか学園作
秩父張り子(横) 討入り太鼓 討入り太鼓
秩父張り子(横) 討入り太鼓 討入り太鼓
節分豆 やいかがし 秩父徳利
節分豆 やいかがし 秩父徳利
節分に行われる家の戸口にいわしの頭やヒイラギをさす風習。柊のとげやイワシを焼いた臭いで邪気を払う。

節分豆まきの起源

各季節の始まりの日、立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。立春の前日の節分には、鬼を払う豆まき(豆打ち)の風習が全国にある。
節分の豆まきは、古代中国において民衆の間で行われていた儺(だ)あるいは打鬼と呼ばれる儀式が源流とされる。凶悪な相貌の面をかぶった人が、鬼を追い払うという内容が根本的な形態だったようである。周の時代には儺の祭りは民間も参加する国家行事としての形態を整え、季節ごとに三分されて行われていた。そのうち年の終わりに行われる最も大きな儺の祭りを大儺(たいな)と呼んだ。大儺とは、楯と鉾を持ち、玄衣(黒い衣)、朱裳に熊の皮をかぶり、黄金の四つの目のある面をつけた方相氏と呼ばれる呪術師が、疫病をもたらす鬼を驚かせて追い払う儀式である(周礼)。後漢の頃には大儺の規模は大きくなり、方相氏は、十二の神獣と百二十人の童を従えるようになった(琅邪代酔編)。
古代中国で鬼とは、「人死曰鬼(礼記)」「人所帰為鬼(説文解字)」と説明されるように人の死後に変化したものを指すようである。儺とはこのような鬼の中で、人々に害悪を及ぼす鬼を払う儀式である。

・論語郷党篇
郷人の飲酒には、杖者出ずれば、斯に出ず。郷人の儺には、朝服して?階(そかい)に立つ。(?:こざとへんに乍)
(郷里の人々のが儺の行事をするときは、官服をまとって石段の上に立ち、これを迎える)

大儺は七世紀末頃に日本に伝わる。続日本紀には、慶雲三年(706年)の疫病流行の措置として土牛を作って大儺が行われたと記録される。
「是年。天下諸国疫疾。百姓多死。始作土牛大儺」

大儺の儀式は平安時代には、疫神・悪鬼を駆逐するため大晦日に行われる宮中の年中行事として定着していた(「内裏式」(821年)の「十二月大儺式」)。
平安神宮で行われている大儺之儀
その後、大儺の儀式は「追儺(ついな)」とも呼ばれるようなる。日本三代実録には、貞観12年(870)12月を始めに、追儺が登場する。
貞観12年12月29日丙午条 大祓於朱雀門前。并追儺如常。

また、追儺の儀式では、悪鬼を祓う役割だった方相氏が逆に鬼として追われる役に変化していったようである。
「江家次第」(大江匡房:康和二年(1100))には、追儺の儀式で殿上人が方相に射るという記述が見られる。
「方相先作儺声以戈叩楯三箇度群臣相承和呼追之。方相経明義仙華門出北廊戸。上卿以下随方相後度御前出自滝口戸。殿上人於長橋内射方相」
公事根源(一条兼良:応永二十九年(1422))
「今日はなやらふ夜なれば、大舎人寮鬼をつとめ、陰陽寮祭文をもて南殿の辺につきて読む。上卿以下これを追ふ。殿上人ども、御殿の方に立ちて、桃の弓葦の矢にて射る。仙花門より入て東庭をへて瀧の戸へ出づ。」
「追儺といふは年中の疫気をはらふ心なり。鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。 」

追儺は「鬼やらひ」「儺やらひ」とも呼ばれ、源氏物語などにも登場する。
・源氏物語
「 儺やらふとて、犬君がこれをこぼち侍りにければ、繕ひ侍るぞ」(儺やらひを行うと言って犬君がこれを壊してしまったので直している)
「若宮の、 儺やらはむに音高かるべきこと何わざをせさせむと、走り歩きたまふも」(若宮は、大きな音を立てて儺やらいをするためには何をさせればいいだろうと言って走り回って)
・蜻蛉日記
「つごもりの日になりて、儺などいふものこころみるを、まだ昼よりごほごほはたはたとするに、ひとり笑みせられてあるほどに」(大晦日になって、女房たちが追儺の儀式のためにばたばたしている様子を見て、道綱母は一人で笑っておられた)
「鬼やらひ来ぬるとあれば、あさましあさましと思ひはべるもいみじきに、人は、童大人ともいはず、儺やらふ儺やらふと騒ぎののしるをわれのみのどかにてみきけば、ことしも心ちよげならんところのかぎりせまほしげなるわざにぞ見えける」(鬼やらひが来るといって大人も子供も騒いでいたが、自分だけは冷めている。心配事のない家だけがこんなことをして興じているようだ)
・栄華物語
「今の上わらはにおはしませば、つごもりの追儺に、殿上人ふりつゞみなどしてまゐらせたれば、上ふり興ぜさせ給ふもをかし」(円融天皇は幼少だったので、晦日の追儺をとても楽しんでいた)
・紫式部日記
「つごもりの夜、追儺はいと疾くはてぬれば、歯ぐろめつけなど、はかなきつくろひどもすとて、うちとけゐたるに、弁の内侍来て、物語して、臥したまへり」(大晦日の夜の追儺はとても早く終わったのでで、おはぐろを付けたり化粧をしたりしていたところへ、弁の内侍がやって来て、お話をしてお休みになった)

追儺の儀式は民間でも行われ、近世になって、豆撒きの行事と混交し、大晦日の行事であった追儺が立春の節分に行われるようになったとされる。
・広辞苑【追儺】より
舎人の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追い回す。大舎人長が方相氏の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・楯を執った。これを大儺といい、紺の布衣に緋の抹額(まっこう)を着けて大儺に従って駆けまわる童子を小儺とよぶ。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古く中国に始まり、日本には7世紀末、文武天皇の頃から伝わり、社寺・民間にも行われた。近世、民間では節分の行事となる。「おにやらい」「なやらい」とも。
・広辞苑【豆蒔き】より
節分の追儺に、「福は内、鬼は外」と唱えながら豆をまくこと。また、その役。まめうち。
・「俗事百工起源」(慶応元年(1865))
民間節分の夜に柊の枝を門戸に挿し、豆を爆て屋内に撒き、鬼は外、福は内と唱ふるも、此の儺の式を摸する処にて最も古き事なり

節分の豆撒きについての最古の記述は、「花栄三代記」や「看聞御記」(伏見宮貞成親王による応永二三年(1416)〜文安五年(1448)の日記)であり、豆まきの唱え方については「臥雲日件録」(室町時代の相国寺禅僧瑞渓周鳳による日記)であるとされる。豆をまく行事は、室町時代には知られていたことがわかる。
「臥雲日件録」
文安四年(1447)十二月二十二日条「散熬豆因唱鬼外福内」
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